2015年2月19日
~炭鉱から観光へ そして復興へ~
「炭鉱から観光への道」
当社は炭鉱から観光へ転進し、2015年1月で50周年になります。幾多の試練、非常事態のなか、半世紀なんとか生きながらえてまいりました。本業である炭鉱の閉山、バブルの崩壊、そして最大の試練が大震災、これはもう立ち直れない程の大打撃を受けました。特に福島は大きな津波、原発の事故、そして今、風評被害というとてつもない大きな壁に向かっているところです。
前身が常磐炭鉱という石炭の採掘会社で、社歴としては約130年になります。その常磐炭鉱が何故レジャーに乗り出したのかをお話します。昭和20年代、石炭産業は戦後経済の復興の基幹産業でした。昭和30年代に入ると石油に押され、経営が厳しくなりました。そして炭鉱にあった色々なセクションの分社をし、社員を移籍させました。社員の雇用を守りつつ、閉山準備に入ったのです。
常磐炭鉱というのは非常に労働条件が厳しい炭鉱で、石炭1トン掘るのに温泉40トン汲み上げなければ採掘が出来ない、という環境でした。源泉60度の温泉が地下から噴出するわけですから、まさに灼熱地獄でした。それを発想の転換で、この温泉を使って何か社員の雇用に結びつけられないかと考えました。これが「常磐ハワイアンセンター」の着想の原点であります。
当時の副社長の中村豊が、「ただホテルだけではお客様は来ない、お客様を呼ぶために何かを作ろう」と、構想に3年くらいかけました。そんな時、海外視察の帰りにハワイに立ち寄り、フラダンス、タヒチアンダンスを見ました。トエレという木を切り抜いた打楽器が非常に情熱的で、その音を聞いた時に「日本古来の民族芸能と相通ずるものがある。これだ!」とヒントを得て帰ってきました。炭鉱にあったセクションを全て分社化したので、設計、土木、建築、電気、あらゆる事業を自前でやれました。中村は人の力を借りず、炭鉱の社員、家族が力を合わせて自分達でつくる事に意義があるという考えでした。この時に外部からお呼びした方は2名のみです。1人は総料理長、もう1人は「フラガール」の映画にもなった、早川まどか先生です。今でもフラガールの先生として教えていただいています。あとは炭鉱の社員と家族だけです。常磐ハワイアンセンターに家族総出で移籍、ここでダメだったら我々家族は生きていけないという危機迫る状況からスタートしているのです。
「常磐ハワイアンセンター」の誕生
昭和41年1月15日、常磐ハワイアンセンターが日本最初のテーマパークとして誕生しました。コンセプトは「勤労大衆に健全娯楽を提供する」、今は使わない言葉ですがこの企業理念に助けられています。80万人のお客様を想定しての開業でしたが、125万人もの方がおいでになり、初年度から多少黒字になりました。当時ハワイというと、日本の大衆がそう簡単に行けない憧れのリゾート地でしたので、速球力があったのです。
しかし、何億円かけてもハードは翌日から劣化していきます。飽きられないためにも追加設備投資が必要で、「スプリングパーク」という日本初の水着で入るお風呂を造りました。ちょうど常磐高速がいわきまで全線開通の時期に、これに合わせて60億円ほどかけて温泉館を増設したのです。そこの「江戸情話 与市」という純和風の大露天風呂がギネスブックに載っており、スパリゾートハワイアンズの自慢です。お子さまからお年寄りまで、非常に幅広い世代のお客様にご利用いただいており、おかげさまで、リピーターも約90%近くを確保しています。
「東日本大震災」
2011年3月11日の東日本大震災の発生時は、東京本社で役員会を開催しており、発生数時間後にようやく福島の会社と連絡が取れました。617名、主に東京のお客様がお帰りになれないでいるという報告がありました。社員が300名ほどで合計1000名、非常時の食材の保有が3日分しかありません。3日でいかに安全に617名のお客様を東京にお帰しするかという事が一つの大きな課題でした。役員も現地に居ないため、お伺い立てなくて構わない、全て現場の判断でやって欲しい、だだし、お客様と社員の安全を第一に考えろという指示だけを出しました。社員達が我が身を省みず、お客様の対応をやり遂げると100%以上の確信があったのです。社員に特別な教育をしていたわけではありません。先輩や親から教え伝えられたDNAでしょうか、そこは絶対どこにも負けないものがあると信じており、私も任せる勇気を持てました。
震災直後に617名を東京まで無事にお帰しするというのは至難の業でした。12日に、海側と山側の両方のルートを確認し、海側はもう完全に行けず、山側は時間さえかければ行けるしトイレ休憩も可能でした。運転者も揃わないなか、何とか拝み倒しながらバス20台を13日の早朝に準備しました。車に乗せられるだけの飲み物と食べ物を積み込んでいわきを出発し、13時間かけて東京まで着きました。これは当たり前の話ですが、料金を無料にさせていただきました。その後、そのお客様方から私に、感謝のお手紙やお電話を多数いただきました。「再開したら必ず行きます」と、そして本当に来ていただいて、大変有難かったです。
後に報告を受けると、社員が涙の出るような対応をしていました。津波で家を流された社員が3日間帰れませんでした。お客様を13日に東京にお送りして、夜11時にお着きになりました。それで現地の対策本部はやっと解散になり、帰宅すると家が流されて無くなっていたそうです。涙が出るような思いがありました。
「一山一家」という運命共同体の精神にも助けられました。生きるも死ぬも一緒、炭鉱の閉山の時も1人残らず再就職をさせ、今回の震災でも誰1人解雇しておりません。雇用重視と口では言えますが、実は非常に厳しく100億の赤字でした。給料は2割ダウン、それでも絶対に社員の首は切りませんでした。そして忘れてはならないのが、地域の人との共存共栄です。極力地元で全て調達しようという基本的考え方です。他からもっと安く買えるかもしれません。しかし130年にわたりお互いに協力し合いながら街づくりをしてきた、という事を忘れてはならないと思っております。
フラガールの全国キャラバン
震災2週間後の3月25日に東京で臨時役員会を開催しました。そこでの提案が、「フラガールの全国キャラバン」の実施です。これは、私の社員に対する「必ずハワイアンズを再開するぞ」というメッセージでした。建物だけが残っても、社員がいなければ何も出来ません。ところが長期休館せざるを得ないため、納得されませんでした。そこで大手新聞社に、東北の復興と福島の風評被害の払拭のために、全国キャラバンを実施するから書いて欲しい、と頼みました。強行手段です。ところが私も想定外でしたが、新聞を見て全国から莫大なオファーがありました。場所を提供する、出演料を出すから来て欲しいとのご要望でした。我々はボランティアです、とにかく福島の復興を目指しているので趣旨が違いますと言いました。それで約5ヶ月間、26都府県、125地域、公演数にして250回、海外は韓国まで行き、全て手弁当で駆け巡りました。当時フラガールは34名、福島県以外に東京や神奈川、他県の出身者もおりましたが、全員自宅待機中でした。4月22日にキャラバンをやるから全員集合と指示を出しましたが、20代の若い女性達です。今の福島まで来れるのは半分位かと思ってました。ところが、なんと全員集まったのです!これは奇跡でした。そんなフラガール達を先頭に福島は元気なんだ、頑張るぞと、地域の皆さんとやってまいりました。その間大変あたたかいご支援をいただきまして、大変厳しい環境でありますが何とか歩き出す事が出来ました。皆様方に感謝の言葉以外の何もないわけでございます。
人が一番大事
数々の危機で省みますと、人が一番大事だと、これはもう痛感しております。人は頑張れるんです。人が一番大事です。そして危機管理、「計画」は最悪な事態を想定し悲観的に、一方で「実行」は楽観的に対応した方がいい。そんな事が今回の震災について私自身がお勉強させられたところであります。
微力ではありますが、再度また皆さんと一緒に東北の復興に向けて頑張っていきたいと思います。機会がありましたら、福島やハワイアンズに、是非にお越しください。
以上
(「SPRINGシンポジウム2014 in盛岡」にて)