経営者の声

2016年6月23日

大和ハウス工業株式会社 代表取締役会長兼CEO 樋口 武男 氏

「先の先を読む経営 石橋信夫に学ぶ
 

プレハブ工法
大和ハウスグループを語る場合は、やはり創業者石橋信夫なくして今日は無かった。今年13回忌を終えましたが、そのDNAはずっとこれからも引き継いでいかなければいけません。
自身は吉野の山持ちの8人兄弟の5男坊として生まれ、自然界が破壊されると大きな災害につながりきりが無い。何か良い物はないかと考えていました。昭和25年のジェーン台風後に、稲穂と竹薮が倒れておらず、稲穂と竹は丸くて中が空洞だ、という自然界からヒントを得てパイプ構造による建築を考案しました。パイプハウスからスタートし住宅へと進化させていきますが、部材を工場で生産するプレハブ工法の走りとなりました。三公社五現業へ47都道府県全て自ら歩いて売り込みに行きました。ですから、考え方が徹底した現場主義で、理屈よりまず行動が基本的な教えです。
資本金300万円、18人でスタートし、初年度は2700万円の売上で10万円の利益でした。それが、今年60年を迎え、来年の3月期は売上高3兆円を越える見通しです。その基盤を作ってくれた創業者の考え方に沿って話をしたいと思います。

日本初のプレハブ住宅
昭和34年に建てた、「ミゼットハウス」も現場からもらった知恵です。猪名川で鮎釣りをしていたところ、日が暮れても子供たちは帰らない。そこで話をしますと、「帰ってもいる場所がない。まして勉強する部屋なんか無い」という返事が返ってきた。この子たちに何とかして勉強部屋を作ってあげたいと、確認申請の要らない10平方メートル未満の面積で、3時間で庭先に建てられるものをと考えたのがミゼットハウスです。この商品は全国22の百貨店で展示即売会をすると、飛ぶように売れました。翌年、当時のお金にして2億円で、大手メーカーが権利を売ってくれと来られたそうです。当時の大和ハウスは資金不足で困っており、創業者は「2億円は喉から手が出るほど欲しかったけれど、技術は金で売ってはいけないと思い止まった」と言っておられました
ミゼットハウスにはトイレも手洗いも台所も何もありませんから、新婚さんの部屋を作ってあげたいと、そこから発展してスーパーミゼットハウスという新婚住宅を造りました。更にもう一部屋できないかというお客さんの要請で、37年にプレハブ住宅A型を造り、これが日本初のプレハブ住宅になりました。
その後、創業者は昭和40年代の減反政策を受けて、これからは余った土地を有効利用する必要があると集合住宅事業をスタートさせましたが、現在では当社グループの事業の柱のひとつにまで成長しました。

流通店舗事業部
集合住宅が広まり、今度は昭和51年に、流通店舗事業部を作れと人事部長に指示をされました。
人事部長が辞書を調べても、流通店舗という熟語は無く、多分車社会になったら郊外に店舗が出来ると言われていたので、商業建設事業部だろうと、商業建設事業部と書いて持って行きました。創業者は見るなり、「誰がこんなこと言った。俺は流通店舗事業部と言っただろう」と、「失礼ながら辞書を調べましたが、流通店舗という熟語はございませんでした。おっしゃっている意味が多分商業建設の部門だろう思い、商業建設という熟語があったので、そう書きました」と言ったところ、「無かったら造ったらいいだけだ、誰に迷惑がかかるのだ」と、非常にユニークな発想をされるのです。
創業者はそれ以外にも、リゾートホテルやホームセンター事業にも取り組まれました。リゾートホテルそのものは、利益を上げるのは大変難しいのですが、土地オーナー様の研修旅行などにご利用いただき好評を博しています。またビジネスホテルのダイワロイネットホテルは、全国に60箇所ほどあり、非常に採算性が良く、事業として十分に成り立っています。流通店舗事業のスキームは、LOC(ランドオーナー&カンパニー)方式と言いまして、地主さんの土地を有効活用するのに、テナント企業を見つけて、地主さんと話し合い、大和ハウスが建物を建築させてもらうやり方で、おじいちゃんから息子さん、そのお孫さんへと2代、3代に亘ってお付き合いいただいている方もいらっしゃいます。
私が大阪商工会議所の副会頭をしている時分に、ある大手ゼネコンの会長が、「樋口さんとこのあのやり方はいいと思って真似したが、全部囲い込まれていてどうにもならないので、あの部門は廃止にしました」という話をわざわざ言いに来られました。
アート引越センターの寺田千代乃さんもある会合の席で「お世話になりました」とお礼を言いに来られました。アートさんは全国規模で託児所をやっておられます。託児所というのは、駅から500メートル以内の場所で、600坪くらいの土地があるのが一番理想的だそうです。そんないい土地をみつけて、地主さんを調べて、何とかあの土地を分けてもらえませんかと尋ねて行かれました。すると「うちは先祖伝来の土地は他人さんに売りません」と言われたので、「では、お貸しいただけませんでしょうか」と言うと、「うちは、土地を有効活用する場合には、おじいちゃんの代から全部大和ハウスさんにお願いしている」ということで当社に来られました。事業のスタートから、何十年も経過しておりますが、土地オーナー様とのお付き合いをきちんとさせていただいてきた結果、そして流通店舗事業も集合住宅事業も大きな柱に育ってくれています。

ヒューマンケア事業部
今はヒューマンケア事業部という名前に変えておりますが、シルバーエイジ研究所を作ったきっかけは、宮崎で老人健康保健施設(老健施設)の引きあいをもらったことでした。ちょうど私は特建事業担当の常務取締役をしておりましたが、老健施設は全く知りませんでした。ですから、社内で誰かそのことを勉強している人いないかと探し、先輩の技術者にサポートしてもらいシルバー関係の最初の仕事、老建施設をやらせてもらいました。
施設の見学をすると、お風呂に入れるのも大変な重労働です。100床ある部屋の10床ほどは窓のところに格子が入っていて、認知症の人が入っておられました。格子があるのは徘徊癖があると窓を破ってでも出て行くからだということを聞きました。廊下を歩いていると中途半端な高さに張り紙がしてあり、「なぜあんなところに張り紙があるのですか」と聞くと、「車椅子の人もおられるし、立って歩く人もおられる。だからどちらの目にも留まるような位置があるのです」と。廊下にある手洗いも、車椅子が入る高さまで下を空けないといけないとか、聞いているうちに、これは一般の建築以上にノウハウが必要だと思いました。そこで役員会議の席で、「これからは、高齢者が増えてきて、施設が全く足らなくなるはずだから、高齢者向けの建物を建てる専門の部署を作ったらどうでしょうか」と提案すると、役員会で議論する前に創業者が、「おっ、それは必要なことだ。やれ」と決まったのが、今のヒューマンケア事業部の前身であるシルバーエイジ研究所でした。
創業者は決断がとても早かった。その精神は現在も受け継がれており、役員会で議案が8項目から10項目あっても、大体2時間弱でYesかNoかの結論は全部出ます。保留で翌月へ繰り越したことは1件もありません。それは、長年創業者が直接指導してきたあり方の一つだと思っております。質問も出るし意見も出ます。しかし、結論が出て初めて会議になりますから、結論の出ないような会議はやりません。スピードが最大のサービスなりという教えと、何をしたら儲かるかという発想ではなく、どういう事業が、世の中の多くの人々の役に立ち、喜んでいただけるかということを考えて進めて行けよと常に言っておられました。

創業者との対話
1995年頃に創業者が「21世紀は風と太陽と水をキーワードにした事業を考えたらいいぞ」と言われましたが、そのときは正直あまりピンときませんでした。しかし現在では風力発電、太陽光発電、水力発電を事業としており、具現化しています。
「先の先を読め」という本を出しましたが、それは創業者との色々な対話の仕方、晩年は病になり、能登ロイヤルホテルに一番近い場所に石橋山荘を造られ、篭り、4年間過ごされました。私は、4年間毎月1回は役員会の前に行って、そこで二人だけの役員会を先に済ませました。「先の先を読んでくれ」という言葉は創業者が晩年最も多く口にされた指示です。
1993年、私が大和ハウスの専務をしているときに創業者に呼ばれました。大和団地が債務超過すれすれで、週刊誌にも泥舟と書かれた時期でした。創業者は、「今これだけ不良資産がある。しかしこの会社は俺が作って上場までした会社なので、絶対に潰すわけにはいかない。俺もやるから手伝え」と言われたのです。私は、「そんな能力はありません」と断りました。すると烈火のごとく怒られました。創業者から本気で怒られたのは後にも先にもそのときだけです。

入社の経緯
私は私立の関西学院大学の出身です。弟も私立の高校へ行っていました。下に妹二人もおりました。親父はサラリーマンで部長職でしたが、そんなに給料があったわけではないと思います。たまたま、お袋が自分の着物を風呂敷に包んで、質屋の暖簾をくぐるのを見ました。親父に愚痴一つ言わず、子供が腹いっぱいになるように、お袋が支えてくれているのだと思ったときに、私はどうしても自分で会社を興して上場し、親孝行して返そうと一大決心をしました。それが20歳の青年の純粋な気持ちでした。
会社は、大中小を受け、お蔭さまで3つとも通りましたが、一番小さい160~70人の鉄鋼商事を選びました。昭和36年というのは、鉄は国家なりと言われた時代ですから、給料は良いし、働く時間は短いし、土曜日は半ドンで、こんな恵まれたことはないと、私と同期に入った連中はずっとそこにおりましたが、私は2年4ヶ月で、今のままぬくぬくとやって将来これに慣れきってしまったとき怖い、モーレツ会社大和ハウスと週刊誌に出ている会社行って揉んでもらいたいと思って、辞めました。その会社は二代目の息子が引き継いで潰しました。人間の運命というのは、一言で言うと運が良かった悪かった、で終わるのでしょうが、自分の信念を持たなければいけないという思いもあります。
私は「歩合制セールス募集」という新聞広告を切り抜いて大和ハウスへ行き、人事課長に、歩合制セールスで募集されているのは分かっていますが、「私は結婚してこの秋には子供が生まれるので、正規の社員として面接してください」と頼みました。あつかましいと言われましたが、必死でしたから最後は聞き入れてくれました。なぜ聞き入れてくれたかというと、創業者は奈良県吉野の山持ちの家に生まれ、会社を作ったので、縁故などで材木に詳しい人は沢山いるのですが、鉄に詳しい人は余りいない。鉄鋼商社にいたことで採用が決まりました。

入社後
最初は、工場勤務です。工場へ行くのにドアtoドアで2時間かかります。軍隊帰りの激しい工場長が、朝7:30からラジオ体操をするので、5:30には家を出ないと間に合わない。夜は5:00に終わるのですが、それから勉強です。工場のしくみも覚えよう、鉄以外の材料も覚えよう、全部覚えて損はないと思い、それは一所懸命勉強しました。志が一本通っていなければ挫折したと思います。1日4時間しか眠れない。あの2年間は、生涯忘れられない2年間です。その後、支店の資材、本社の集中購買、資材を8年やり、33歳のときに営業部の次長になりました。すると、営業マンの書類決裁をしなければならない。何故こんな書類がいるのかと、管理課の課長や係長に一つ一つ聞いて、自分で覚えて、住宅金融公庫の申し込みにも自分一人で行きました。体験することが大事です。社員教育で行う飛び込み営業も自ら体験しました。1日100件以上の飛び込みを何度か経験すると、断られることへの恥ずかしさがなくなり平気で話ができるようになりました。3年後に、開設して半年目の山口支店へ支店長で行きました。支店長は支配人登記されますから、社長の代理人です。自分は会社を作りたいと思っているので、最初に「今日から山口支店株式会社の社長として赴任した樋口です」と挨拶しました。最初の会社を立上げるという気持ちで行き、とても張り切りました。ぶん殴って、蹴飛ばして。今なら即刻クビになります。
半年目に創業者が社長として支店に来ら挨拶回りに行きました。まず知事のところへ行き、それから市長、公社の理事長、と挨拶へ行きました。挨拶へ行って、社長が何を見ているかと言うと、事業所長会議の中で「新しい支店長になったら、最初の3ヶ月は前任の支店長の責任だ。4ヶ月目以降は新しい支店長の責任だ。4ヶ月目以降は自分の責任だから、それまでに主要な人には全部会っておけと」言われていました。ところが中には挨拶に行ってない支店長がいて、社長が挨拶した後に、大変挨拶が遅くなりましてと挨拶する。そのような支店長で、支店長より上へ行った人は一人もおりません。やるべきことをやっていないということでアウトです。
主要なところへ挨拶をして、事務所へ帰る途中に、社員の皆さんへの住宅のあっせん、いわゆる「持ち家」でお世話になっている日本電信電話公社山口支部を訪問しました。個室に入っておられた支部長と次長に挨拶して帰ろうとすると、創業者に「ちょっと待てよ樋口君。ここは持ち家でお世話になっていると言ったな。いつもお世話になっている窓口の人はどなただ」と言われました。「総務の課長と係長です」と言うと「そこへ寄らないといけないだろう」と。戦争で脊髄損傷していますから、足を引きずりながら歩かれるのですが、Uターンして、そこへ行きました。そして、知事に挨拶するのと同じように膝頭を拝んで挨拶されるから、私は度々行っているので、「どうも」と頭を上げたら、まだ創業者の頭が下にあったので、慌ててもう一度頭を下げた、という記憶があります。そのことを事務所へ帰ってから「今日は挨拶のOn the Jobトレーニングをしていただきましたね」という、全然違うことをおっしゃるのです。「樋口君、支店長になったら忙しいだろう」、「ええ、お蔭さまで忙しいです」、「よく本社から役員が来るだろう」、「よく来てくれます」、「来たら迎えに行かなければならないだろう」、「いや、忙しかったら、代わりの者に行ってもらいます」、「夕方になったら、飯を食わせと言うだろう」。「いえ、お客様と予定があれば断りますよ」と自然体で答えましたが、全部自分が体験していることだから、分かっておられるのです。このやりとりもテストでした。晩年、創業者が能登で闘病生活に入られる前に「しつこいようですが、山口支店の時、挨拶のことを確認されたのは、テストされたのでしょ」と聞きました。今までは、全部話をそらしたのに、ベッドで寝ているところで、首でそうだと合図をされた。そして「わかるやつもいれば、わからんやつもいる」とおっしゃいました。全てを見抜かれている、大変恐ろしい人だと思った記憶があります。

先の先を読む
今、グループ企業が介護事業をしています。湯河原と茅ヶ崎の2箇所のほか、東日本大震災の後、東京電力さんがやっておられた介護付き老人ホーム3箇所を引き受けました。また今年から着工しますが、渋谷に上場企業の社宅跡地を分けてもらって、そこへ介護付き老人ホームを作ります。今後高齢者が増加しますが、現状でも介護人が足りません。あと30年経ったら人口に占める高齢者比率は37%になる。私が住んでいる団地は、昭和38、9年頃に売り出し、4,200戸のうち空き家が600戸もあります。80才以上の人で一人暮らしをしている空き家予備軍は150~160戸ある。そして、高齢者比率はすでに37%です。そういう問題も諸々含めたら、これからシルバー関係の事業はものすごく不足してきているのです。入居費用の安い特別養護老人ホームにはなかなか入れません。それは他人のことだ、では済まされないような状況にどんどん変わってきている。そういう状況を予測して事業を考えていかねばなりません。創業者は1995年頃に、すでに「風と太陽と水」に着目された。凡人には想像できませんが、常に一歩先に進んでおられた。その精神をわれわれは受け継いでいかねばならないと思います。 

世の中の多くの人の役に立ち、喜んでいただけること
今から10年ほど前に、ロボットスーツ「HAL」の件で筑波大学の山海教授が東京の事務所に来られました。ご自分の研究を一生懸命話して頂きました。話が終わったときに「ところで、山海先生は何のためにそれをやっておられるのですか」と聞いたら、「自分の研究を通して、世の中の多くの人々の役に立てればいいと思ってやっています」と言われた。「それはうちのオーナーが、私に教えたことと一緒です。そのお気持ちでやられるのだったら、うちがサポートさせてもらいます」と言って、筑波大学の近くに工場と研究所を40億円ほどで建てて提供しました。その見返りに議決権の無い株をもらいました。一昨年上場されたときに出資した40億円は、回収させてもらいましたが、今の株価で持ち株数を掛けたら数百億円の含み益が出ています。当社も良かった、山海さんのところも良かった。今、ロボットスーツは病院などでリハビリ用として使われていますし、建築現場や物流関係の作業でも使われています。これから介護用にも使われます。そういう形で増えていくのだろうと思いますが、やはり出会いと決断が非常に大事だということですした。 

サステナブルな企業群を目指して
創業者は亡くなる一年ほど前に、「50周年のときは1兆5,000億円やってくれるだろう」と私におっしゃいました。そのときは1兆3,000億円ぐらいの売上高でした。「はいやります」と言うと「そしたら、100周年のときは10兆円の企業群を形成ししてくれな。それがわしの夢や」と言われたのです。その言葉が私の中にずっと残っています。やらねばならないと思い続けています。ですから常に10兆円までいくためにはどうすればいいかと考えるわけです。日本の人口は減っていきます。21世紀中に6,000万人台になると言われています。逆に世界の人口は増加していきます。だから次に広げていけるのは海外です。海外は今1,200~300億円しかやれていない。15カ国くらいしか出ていない。その10倍、145カ国くらい出て行かなければいけない。しかも今のような請負事業のスキームだけでは、だめです。大手のゼネコンが海外事業から撤退した過去を考えれば明白です。私は、単独で動かせる商品をつくって、それを世界中で販売することを考えて、有望な技術をもったベンチャー企業を探しています。そのためのキーワードは、創業者の教えである「世の中の多くの人々の役に立ち、喜んでいただける」ものです。一つの例として、ダイキン工業さんは、エアコンだけでほぼ2兆円近く売り上げている。そのような世界の多くの人に喜んでもらえるような商品をつくろうと、今ベンチャーを一生懸命育成しています。昨年の1月に、日本ベンチャー大賞の表彰式がありました。総理大臣賞をもらったのはユーグレナ。ミドリムシです。経済産業大臣賞でサイバーダイン社と大和ハウス。これは、連携賞という形でもらいました。ベンチャーの人が大勢来ていました。まだまだいい物を持ったベンチャー経営者が沢山いるのです。
10兆円のうち、今のままの事業スキームで5兆円までは行けるかもしれません。後の5兆円は新しい世の中の多くの人々の役に立ち喜んでいただける「商品」を作り出していかねばならないと思っています。「商品」は単独で動けます。海外で在庫をもって事業を行うことは、国ごとに法律も違い、いろいろな制約があって中々難しい。現地のよいパートナーを見つけて全世界に代理店を作ってキャッシュオンデリバリーで商品を販売すれば回収も安心です。
このように世界に通用する商品づくりを目指しています。今はまだロボットスーツHALなど少ししか実現できていませんが、今すでにいくつかの有望な商品をあたためており、世に送り出すために日々努力しております。

 
 (「SPRINGシンポジウム2015 in東京」にて)